Star System Scramble

スタァライトや𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖や感情置き場です

自分が声優さんのオタクになっていたことを直視する覚悟と、再生産の話

 オタクとして、これまでどう生きたいと考えていて、このときどう生きていて、これからどう生きるかという話をしています。自分語りです。自分のために書いた。

 

TR;DR

・3次元の人間が関わるコンテンツを知らなかったオタクがその沼の深さを知って

・それを追いかけること、それを追うにあたっての危うさを自分なりに分析して

・それでもやっと今、そうなっていること、そうせざるを得ないことを認め、女性声優さんのオタクを名乗ることを、決意

 

ということで今日(3/1に書いてたのでそういうことで)から正式に「自分は岩田陽葵氏のオタクである」という決意と覚悟をもって、いきます。先行のフォロワー諸氏、よしなに。

 

(とはいってもやることはあまり変わらないかもしれないです。自分の精神の持ちようの問題です。)

 

 

 

 

 

Phase.1 これまで - 架空と実在

 自分は、「架空」に救われて生きる人間だと思っていた。中学校まで本が大好きで、昼休みに図書室に行かない方が珍しい人間だった。ないキャラクターと、ない話と、ない世界に魅せられていた。片田舎育ちの自分にとって、テレビの向こう側、インターネットの向こう側は正しく向こう側の世界だった。
 高校時代は環境が変わり本こそ読まなくなったが、代わりにオタク的なコンテンツの世界に踏み入り、そこでも「存在しないがそこにある現実」を追い求め楽しんだ。twitterで絵を見ることを覚え、pixivでたくさんの漫画を読み漁り、同人誌を集めた。2度コミケに行ったことがあったが、ひたすら本を買い漁り、一人持ち帰って楽しんだ。それはもちろん本当に楽しかった。


 同じコンテンツから構築される無数の世界が好きだ。それぞれに受け取り、噛み砕き、再構築(ここではまだ再生産という言葉を知らない時期なのでそうは書かない)された世界の形があり、その出力と自分の感性の波長が合ったときの喜びは何物にも代えがたかった。人との交流は0に近く、ほぼ壁打ちだったが、同人誌の感想を書くなどして少しだけ交流が生まれたときはそれはそれで嬉しかった。ただそれは当然ほとんどの場合電子の海を介した交流だったし、基本的に実体としての人間の形は存在していなかった。そして何よりあくまで「架空」の世界を介した交流だった。

(その好きのかたち自体は今でも変わらないと思う。二次創作に込められた祈り、叫び、願いがとても好きだし、それは性質として自分の中に根付いていると思っている)

 

 それゆえ、生身の人間が関わるコンテンツというものに縁と興味が無かった。コロナ禍もあったし。ライブなどにも上京するまで全く行ったことが無かった。そういうアンテナがないし、それ故体験の機会もなかったのだ。

 

 

 しかし、上京とほぼ同時に知った少女☆歌劇レヴュースタァライトが、その壁を壊した。初めこそ「架空」に属するアニメーション映画から入ったが、その性質を知っていくとともに初めて声優さんたち、舞台少女たちの顔と名前を覚えた。そして、オーケストラコンサートでその「実在」を認識した。画面の向こう側にいた彼女らは、その日視線の向こう側で動き、歌い、笑う確かな存在だった。何を語り、何を取り繕おうとそこには「そのもの」があったのである。それだけでも、もう自分にとっては世界が廻転するような衝撃だった。まさしく、星のダイアローグサビ前の「アタシ、再生産」のバンクのような。

 

 そしてもう一つ、演者と観客は共犯者であり、観客は演者に燃料を与えられること、演者の糧になることができるという概念も、また初めて味わうそれだった。一人で完結していては辿り着くことのできない、キラめきの反射と屈折による、際限ない熱量の螺旋。それは、自分の知らない「在り方」の提示だったのだ。

 

 それから、約1年が経って観劇した、舞台#4。そこで自分は、「実在」のその先にある「そこに立っている人間の全部を込めた、全てが無数の一瞬にかけられた、目の前で繰り広げられる『物語の実在』」を目にした。物語は、架空のみのものでは非ず。現実そのものが物語と化すということ、ほんとうに観客はその物語の登場人物になれるのだということを、その時初めて〝わからせられた〟。「実在」は圧倒的な暴力だった。例えそれが予め作られた物語をなぞるものであったとしても、その一つ一つが実在する人間によって演じられることでその瞬間に物語が生まれ、それを魅せつけられる。それを観た演者もまたその瞬間の目撃者という「役」を与えられることができる。スタァライトが伝えたかった舞台の瞬間性、狂気性、暴力性。それをようやく魂の奥底に灯すことができたような気がした。

 

Phase.2 このとき - 理想と現実

 それでは、本題に入る。

 舞台の上で繰り広げられたそれが「物語の皮を被った現実」だったとしたら。その皮すら剥がれた「本当の現実」においての「本当の人間の物語」に、私はどのように向き合えばよいのだろうか?

 生きることそのものが舞台であり、物語である。考えようによってはそのような見方もできることをスタァライトで知ってしまった。その上、予め予定された、作られた物語ではない、その人間がその心で感じ動きとしてあらわしたものが、現実と同じ時をかけて我々に届けられる。それは自分がこれまで好んでいた物語のかたちとは、全く位相の異なる魅力を秘めたものだった。

 

 そしてなにより、その実在する物語は「こちらを見ている」ことがある。劇場版スタァライトの「見られてる、誰かに」という愛城華恋のセリフは、まさにそういった恐怖の瞬間だった。あれは、演者である華恋が初めて観客を認識したという意味合いを持つが、自分にとっては「演者に認識されている」という怖さを端的に表す描写でもあった。こちら側が一方的に観測するはずの「架空」が、その壁を超える。それもまたスタァライトのやりたかったことであり、やり方なのであろう。

 既に私は観測者ではなく、当事者となっている。ただ「演じられる物語」を観に行ったはずが、自分もその物語に組み込まれた登場人物なのだ、ということを否応なしに理解させられている。一人の声優が、舞台女優、人間が生きることそのものが「実在の物語」であるということ。そして自分がそれを応援するその他大勢の1だったとしても、その1に目をかけてくれる瞬間があり、そこに物語を見出すことができるのだということ。事実がそうであったなら、後は認めるだけだろう。

 

 しかしそれはただの妥協であり、劇薬ではないだろうか?

 

 相手が望み、自分もまたそうしたいからと言って、安易に欲望の向くままに行動するという結果は認められない、そう考えてしまうのが、私という人間だった。何か根拠、あるいは言い訳、呼び名はなんでも良いがとにかく「理由」に基づいて行動するべき。本能を理性で制御し、自ら獲得した正しさによって行動することができる、それが〝人間である〟ことである。そう私は考えているし、だからこの文章を書いて、自分の「理由」を形にしている。

 

 つまり、これまでの自分には、「声優さんを追いかけて応援している」と真正面から宣言するのに、どこか引け目を感じていたということだ。その理由を探すと、過去においてそういったコンテンツをどこか冷めた目で見ていた節があったからだと思う。「純粋な物語のみ」を愛する自分は、結局現実に帰属するそれらに熱を上げる誰かとはどこかが違うという、つまらないプライドだ。それはある意味では正しいかもしれない、と今でも思っている。「架空」はいつだって「誰のものでもない物語を、自ら選び取る」ことができる。誰のためでもなくただ世界に置かれているそれを自分が観測したからこそ、今物語はここにあるのだという矜持だ。つまり主体はあくまで自分にあるのである。それに対し、現実にあるものはこちらが何をどうしようと勝手に進む。過去の自分には、それを追う理由はわからなかった。

 もう一つ単純に、存在する人間に自分勝手な感情をぶつけることに、気持ち悪さを感じている(これは今も正直そうなので過去形ではない)。手を振ったら振り返してもらいたいという感情、自分に向けて笑って欲しいという感情、自分を知ってほしいという感情。それらを否応なしにどうしても「身勝手な欲望」だと感じてしまう。主体はあくまで「物語である演者」にあるはずなのにもかかわらず、自分がそれに干渉したいという驕り。

 

 しかし、それに対する回答は既に導き出されている。現実の物語において、演者と観客は共犯者であり、どちらも必要なものなのだ。身勝手さすら燃料として炉に焚べることができる、肯定されても良いのだという気づき。

 そして事実として、岩田陽葵さんという現実の物語に今私は魅せられている。架空の物語と現実の物語は複雑に交じり合う螺旋のようなものだということを理解し、そのうちに自分の中で現実の物語をもっと見てみたいという比重が大きくなっていった。認められない気持ち悪さも呑み込んで、それもまた自分の新たな姿だと認めようと思うくらいには。そういうことなのであろう。

 

Phase.3 これから - 自殺と再生産

 「アタシ、再生産」とは、「古い自分を燃焼して、新しく生まれ変わる。」行為であると少女☆歌劇 レヴュースタァライトでは定めている。

 過去の自分が認められなかったものを受け容れたり、あまつさえそれを好んでしまっている今があるという事実を、過去の自分への裏切りや妥協と捉えずにいられるのか?という割り切れない命題。その答えの一つとして、「再生産」というワード、論理は理にかなっているようにも思える。

 しかし前半の、「古い自分を燃焼して」のプロセス これは本当に勇気がいることだと自分は思う。過去の自分を灰にするまで火にかける苦しさ、その熱を次に繋げなければならない不安、そういったマイナスも全て、「再生産」した自分が今この場にいるという結果によって、逆説的にはじめて今に繋がる。

 少女☆歌劇 レヴュースタァライトの1話を見ると、Aパートの愛城華恋はひかりに突き落とされ、背中から落ちている。しかし、Bパートでは自分から舞台に、前を向いて飛び込んでいる。(例え「再生産」バンクは背中からだとしても)ここには思想があるのだと私は考える。つまり、自分の行きたい場所、立ちたい舞台を自ら見据え、身を投じなければならないのだ。落とされるのではなく、自分から踏み切って、選ぶ。誰かにそう勧められたからじゃない、自分自身で身を投げたのだと言える、その矜持が必要なのだと。

 この長文は、そういう決意表明である。

 

オマケ - 経歴見直してみる

・初代劇スオケコンのときのツイートを見返したら、ここで岩田さんのことめちゃくちゃツイートしてた。やっぱりそういうことか。(とはいえそこから1年はスタァライトの方に傾倒しすぎていて、人では追っていなかった)

・夏のharmoe 2nd Liveがめちゃくちゃ楽しかったのにharmoe Room会員になっていなかった(社会人なんだから月550円ぐらいどうとでもできるのに)のですが、こういった引っ掛かりをどうしてもまだ消化できていなかったからです。理由を付けられたので、なりました。

・2023年中盤からちょっとずつ岩田さんの出演を追うようになっていった中で、harmoeやD4DJはクラブミュージック、舞台チェンソーマンは原作読んでたがあったけど、TL見て仕事終わりに朗読劇の人間失格紅のチケ勢いで取って行った時に「これはもう流石にダメかもしれない」と覚悟を決めました。あと大運動会と女勇展で「やっぱ自分この方のことめちゃくちゃ好きかもしれない。」になったので書きました。