Star System Scramble

スタァライトや𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖や感情置き場です

少女歌劇レヴュースタァライト -The Live- #4 Climaxを観ました【再生産】

これが舞台か、愛城華恋。

 

現在(2023/02/28)

 28日のマチネをSS席で、千穐楽を3階席で観ました。

 2回目を観た直後のツイート、感情は「どうすればいい?」でした。まだ、そのキラめきの眩さに、自分がどうすればいいか、どうなっているのかわからなくなっていました。

 

 けれど、3回目、千穐楽で。次のライブ、次の舞台が発表されて。小山百代さんが、「みんなを、スタァライトしちゃいます!」で〆られたとき。

 舞台少女たちが現実に、この世界に確かにいることが、次の舞台へ私たちを連れていってくれるということが、表現でも比喩でもなく、全部本当にほんとうなんだと。そのキラめきで観客の全部を持っていって、そして与えてくれるのだと。再生産の対象は、私もだったのだと。

 

 やっと、わかりました。

 

 劇場から出たときの心境は全く晴れやかで、比喩でもなんでもなく生まれ変わった自分がそこにいました。

 

 これが舞台、これがキラめき、これがレヴュースタァライトがずっと描いていて、ずっと伝えようとしてくれていたことなんですね。

 今回まで舞台をまだ生で見られていなかった私はずっと、スタァライトというプロジェクトの半分だけを、観ていたんですね。そしてもう半分を観たとき、全部を見せられてしまったとき、ついに昨日と違う自分ではいられなくなってしまっていた。だから全部持っていかれてしまったと感じていたんだ。上で言っているのと同じことだけど、それがどれだけわけのわからないことか、ありえないことか、すごいことか、なんとか記録に残そうとして、自分に起こったことを確かめたくて、何度も確認してしまう。

 舞台って、すごい。スタァライトってすごい。レヴュースタァライト、ありがとう。

 

現在+1(2023/03/01)

 昨日の自分、思ったよりちゃんと言語化できてますね。偉い。

 一日経って、ただの観客ですらこんなことになったのに、毎回毎回役を全力でやって、生まれ変わっている演者に「次」が無かったら、そりゃ死ぬのなんて当たり前に決まってるよ、劇場版愛城華恋……ということを考えたり、舞台の脚本や演出劇場版と対比される要素がめちゃくちゃ多いけどどちらも最高に「スタァライトだった」と言えて、プロジェクト全体で共有されているコンセンサスが強固すぎてすごいなぁとなっていたり、外から見ていたら正直「まだ九九組擦るの」と思われるところもあるかもしれないけど、でも、あの舞台を観てしまったらどうしようもないよと思ったり、舞台って狂ってる~って昨日残していたけど、最初の最初っから「静かな/輝く 〝熱狂〟に向かって 私たちが連れていくよ」って歌われてたな、スタァライト、全部もうそこに答えを置いてくれていたんだなと思ったり、などなどしていました。

 スタァライト、劇場版でも思ったけどこれってこういうことだったのか!って気づいた後で見ると、ぜ~~~~~~~んぶ最初っから回答されてる。マジで。全部こっちがわかってないだけだった。

舞台って、危険すぎる

 愛城華恋が5歳の頃に一回見ただけのスタァライトの光をそれからずーーーーーっと追い続けられていたり、キリンがその身を燃やしてでも舞台少女達の燃料になったり、アニメ脚本の樋口さんが1月初めのトークショーで「舞台って人を狂わせる」と語られていたり、他にもさまざまな「舞台に狂っている」話の中身が、やっと、ようやく、本当の意味で分かった気がします。昨日「舞台は狂っている」と感じたことを書いていましたが、その感覚は間違いじゃなかったし、そしてもっと深いところに自分も落とされてしまったような感覚。

 舞台って「生命」をそっくりそのまま投げつけてくるから、それを受け止めきれないと助けてってなっちゃうんだなって。そしてそれを受け止めきれたとき、今度はその生命の輝きを血肉とした、自分が出来上がるんだなって。(これも劇場版でやっとるわ。ずっと演者側の話かと思ってたんだよ……。)

 舞台はナマモノっていう言葉あるじゃないですか。あれは舞台を演じるのは生の人間だから全く同じ舞台はないよとか、進化して変わっていくよとかいう意味だと本来思うんですけど、そうじゃなくてマジモンの「生物(せいぶつ)」だったんだなって思っています。ニュアンスの話過ぎて伝わらないと思うんですけど……。

 ここんところの話はもう100%個人の感覚によってますが、少なくとも自分が今まで触れてきたあらゆる事象の中で、一番人の人生まるごと引っ繰り返すパワーがあると感じました。そう感じる人が多いからこそ舞台というエンターテインメントがずっと人気で、ずっと続いているんだろうな。

 逆にこういった衝撃に対して劇場版で頭を慣らしておいて良かったんじゃないかとすら思っています。初見でこれを食らっていたら、どうなっていたか今以上にわからない。もうスタァライトに狂ってるかもしれないけど、もっと狂えていたとも思います。

 

改めて、劇場版と#4

 昨日「劇場版はジェットコースターで、#4は観覧車だ」って例えをしていたのですが、もっと適切な回答として、「劇場版は電車、#4は徒歩」というのがあったんだなと気づきました。

 それぞれが乗る電車、目指す目的地を決めるための話と、そうして駅に辿り着いた後、目的地まで徒歩で歩くための道を探す話、池袋駅まで電車に乗ってきたら、Brillia HALLまで歩かないといけないよね、そういう感じの。

 これを直感的に思ったのは、#4の最後のシーンが、華恋が「歩いている」シーンだったからです。(一回目観たときはそもそもそのあたりの記憶が無かった。それまでに与えられた衝撃が大きすぎたのだと思います。記憶が喪失する、これも劇場版と同じだ……)

 いや、それにしても、荷物を背負い歩く華恋が上手側、制服のひかりが下手側の構図で再会して、星空の下に腰かけて幕が下りるって、シチュエーションの尊さ(この表現あんまり好きじゃないんだけどもうこれしかなかった、語彙が)も、劇場版のあまりにも澄み渡った青空や上手下手逆の構図の対比も、言葉で書ききれない美しさで、最高すぎじゃないですか 最高過ぎじゃ、ないですか……。(個人的には劇場版より好き度合いで言うと上でした、ちゃんと受け止められたときの感情が)

 かれひかに関しては、「わがまま」というワードを出すのがどっちとか、ただいま/おかえりとか、「舞台で待ってる」のがどっちとか、向かい合って決着する劇場版と背中合わせの#4とか、どちらが最後にたった一人のスタァになるのかとか、上掛けを自分から外す描写の対比とか、徹底的に劇場版の逆を行くようになってて、ほんとに無限に話せる、話したいな。

 とにかく、「ミュージカル×アニメーションで紡ぐ、二層展開式少女歌劇」の神髄に、骨の髄まで焼かれ切ってしまいました。

 正直な話ですが、劇場版の後だった#3は配信ではリアタイしましたし、#1や#2も見たのですが、こんな感じか~やっぱ劇場版が自分の中で良すぎたんかな~ぐらいの感情でした。それも全部#4を初見の舞台という形で観るための布石だったと今では思えます。#3の脚本は卒業を描いていましたが、劇場版を完全に視界に収め切ってはいたわけではなかったのかなと個人的には思っていましたし、(僭越ながら)我々が火種を焚べ続けた劇場版の内容を全霊で打ち返してくれた#4が初の生舞台で、とても良かった。

 

舞台少女は次の舞台へ、観客も次の舞台へ

 (これまででも何度か触れてる)すごく身勝手な感想なんですけど、劇場版スタァライトで描かれていた観客=キリンは、自らの身を燃やし舞台に灯を灯す役割を担っていました。それも間違いなく、確かに観客としての姿で、事実私は劇場版を観てからずっとそうだと思っていました。

 けれど、そうではなかった。

 劇場版で描かれていた「飢えて、渇いて、次の舞台へ」向かい、「一度死んで再生産される」舞台少女達は、全て「私」だった。私って観客だったと思っていたけど、舞台に立っている舞台(少女はさておき)人だったんだと。

 そしてそれも全部伝えられていました、「私〝たち〟はもう舞台の上」という一番大事に持ち替えるための、残る形で。頭では自分たちのことも含んでいるんだろうなと考えていたけど、そんなものじゃなかった。ほんとに自分たちは、舞台に立っていたのかと。そして舞台を観たその日、再生産されたんだなと。今そう思っています。次に劇場版スタァライトを観たとき、4次元通したぐらいに見え方が変わってしまっていそうです。(180°って言おうとしてそんなレベルじゃないことを伝えたくて4次元になりました)

 そして、バンドライブとThe Live新プロジェクトという「次の舞台」もしっかりと、用意してくれている。こんなにも嬉しい というか生きるための星になるんですね、次の舞台が。それを実感させられてしまった。舞台を観るまでは何かの発表あっても「お~、次来た!」ぐらいの気持ちだったのに。こうやって狂わされるのか。

 あと、最初にも書きましたが、小山百代さんが「みんなを、スタァライトしちゃいます!」で舞台を〆られたこと。劇場版スタァライトが最後にやっていたことは、これなんだよというのが眼前真正面から衝突してきて、気を失いそうになりました。実際気絶してたのかもしれない。一つの役から降りた愛城華恋が、その舞台における決め台詞を役を演じた演者として言う。それを、愛城華恋である小山百代本人がほんとにやっちゃったら、もう、演じるとか演じないとかじゃなくて、いるじゃん、愛城華恋が、小山百代として。しかも「愛城華恋」の舞台では言わなかった台詞を、千穐楽最後に一回だけ「小山百代」が言うって。反則ってレベルじゃないでしょそんなの。演じる者を演じる者が演じるみたいな幾重にも重なった構造の最高潮を、あの瞬間、魅せられてしまいました。だから最初からそういうことをやってるんですよレヴュースタァライトってのは。狂う。苦しい。

 

 昨日もそうでしたが、要素を拾っていけるほど頭が全く整理されてなくて(生後1日なので)、ただただ書き散らしてるうちにボルテージが上がり切ってほんとに読むに堪えない文章になってしまいましたので、もう筆をおきます。

 レヴュースタァライトを…………私の全部に、されちゃいました!!!