Star System Scramble

スタァライトや𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖や感情置き場です

少女歌劇レヴュースタァライト -The Live- #4 Climaxを観ました

助けてください。

 

今書けること(2023/02/27)

※後で消える可能性が高い

 マチネの#4を観て終了後、無言速足でカラオケに入り、転げまわりながらまる一時間「助けてくれーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」「マジか~~~~~~~~~~~~、マジか、そっか、そっか~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」などと叫び続け、ようやく正気に返ってくることができました。そういうこともあると思う。そうしないともたなかった、何もかもが。全力で叫ぶことが必要でした、自分の血肉にしきれないものを食べてしまって、全身が破裂してしまったので。

 何を書き残しておけばいいかわからないけど、少しでも今を記録しておかないと「他人の言葉」で全部上書きされてしまうと思うので、なんとかしようとしています。

これを書いたら人の考察や感想を見まくる許可が自分の中に出ます。楽しみすぎる。

 

劇場版と、#4

 私はスタァライトというコンテンツに劇場版で焼き尽くされた(数多くいるであろう)観客の一人なので、基準が、ポジションゼロがそこにある人間です。逆に、舞台については、生は人生で初めて観ましたのバクテリアです。何も見えていないと思います。

 なのでせめて私なりに、あの劇場版に対して#4が何をしたのかということについて思ったことを書いておきたいな。書きます。

 

 劇場版を初めて観たときの私は、心臓がバクバクして、目が爛々と輝いている感じの、「何かヤバいものをキメちゃったかも」みたいな感情でした。オケコンもそれ。ですが、#4を観た後は、生きるためのエネルギーをどこかに全部持っていかれてしまった幽霊みたいな感情でした。なんでこうなったのか、自分なりに考えてみる。

 

暴力と、説得

 劇場版スタァライトというのは、古川監督をはじめとする制作陣の、映像と音楽と演出と脚本とその他すべての「2時間の{歌劇}体験」をもって、暴力的にスタァライトとは、舞台少女とは、99期生のこれからとはを「わからせられる」作品だったと思います。そういうことをやろうとしていて、ものの見事にわからされてしまった。人生にスタァライトを捻じ込まれたのです。(さんざん例えられてるけど)例えるならジェットコースター。

 そして劇場版スタァライトは、「私たちはもう、舞台の上」を劇場から持って帰ってもらうことを命題の一つとした作品でした。彼女らが我々と同じ世界、同じ舞台で、「次」を目指すこと。それが、劇場版スタァライトが見せてくれた終わり方であり、本日今この時への続き方でした。

 

 それに対して、#4のやったことは、「わかってもらう」ことだったと、私は思います。劇場版スタァライトで軸としてあった卒業というテーマに対し、我々がそれぞれの進路に対し当たり前に抱くであろう疑問や感情を、一つ一つ拾い上げて、丁寧に丁寧に見せて、それが彼女らのこれからだということを理解してもらう。誠実で、真摯で、だからこそ当然導き出される結論として辿り着いた「卒業」を、こちらもわかってしまえるようになった。そこまでされてしまったし、そこまでしてくれた。こちらは、観覧車でした。ゆっくりと上っていき、一番高いところでこれまでスタァライトが歩んできた道のりの光を全部視界に収められるような、そんなアトラクション。

 だから、「次」は無くて、それで良いと思ってしまった。これからまだまだ進む彼女たちが遥か先へと見えなくなってもいいと、一瞬でも思ってしまえた。観客すら全部持ち物にして、持っていってほしいと思ってしまった。

 そう思ってしまっていた自分がいたから、最初に出てきたのが「助けてくれ」だったんだなということを考えています。感情だけじゃない、あらゆる全ての自分をスタァライトに持っていかれてしまったことも、ずっと続いて欲しいはずのスタァライトにそう思ってしまったことも、全部持っていかれてしまった自分がこれからスタァライトにどうやって向き合っていけばいいかわからなかったことも、全部含めて。

 

 もちろん、一般的な悲鳴を上げるオタクとして拾う要素はそれこそ劇場版並みにいくらでもあるでしょう、ありました。華恋が現実の範囲内でめちゃくちゃ非常識なフリーダム野郎(女の子ですよ)になってるとか、ななひか同棲やっぱ幻覚じゃなかった(ことになった)んだとか、そりゃ孤高の天堂真矢じゃ「新国立劇団員」としてはぜんぜんだよなとか、露崎まひる受験の時華恋が気になって実力出しきれたかわかんないのにBクラスに行く実力あるの、すごいよそりゃそうだろ露崎まひるだぞとか、でも自分の世話は焼けないのね、頑張って……になったりとか、純那ちゃんには今までとは別方向の王者の試練が襲ってきていたのかとか、ななひか自撮りかわよとか、あそこのシーン上と下でテンション違い過ぎておかしくなりそうだったとか、氷雨に「失礼だよ」と言えるななは今本気でやってるんだなとか、でもその後友達といるのが楽しい3年間でよかったのかという氷雨にそれで良いんじゃないかなと返すなながなならしくて良かったとか、樋口さんの話聞いてから見る新しいクロディーヌがやっぱりほんっっっっといい女すぎるとか、天堂露崎に挟まれる双葉かわいそかわいいとか、プロとして歩み双葉も再び導く花柳香子(彗仙)あまりにもカッコ良いがすぎるだろとか、晶はほんとどこでも王者の立ち振る舞いでだからこそ晶なんだなとか、ミチルの「女子高生なんだから」にそうだよな……と呻いてしまったりとか、華恋が居候させてもらってたユウリさんはユーリイガガーリンから来てるのかなとか、いたのはグリニッジ天文台なんだなとか、華恋がひかりに対する感情を吐露するところちゃんと見たかったのにいつのまにか目が潤んでたとか、観客が終わりを望んでいなかったから(もしくは劇場版で焼け落ちたからかも)今回キリンは出てこなかったんじゃないかなとか、NO TITLEからもう過去舞台の再生産は始まってたのかとか、あそこのStar Divineという楽曲の積み方(使い方って言いたくない)に対してどう感情を表せばいいか熱が高すぎてわからないとか、revivalが入ってるの意表の外でぐわって薙ぎ払われたとか、満を持して参戦するひかりやっぱかっけえよとか、愛城華恋がスタァだった、スタァだったんだ……とか、華恋が髪飾りを忘れるという出来事、アニメ1話までも重ねてくるの本当にそういうのに弱いからとか、いくらでも出てくるんですけど、でも(それも言いたいけど)また別の機会で良いと思ってます。ほんとうに書いておきたいことは、こんな小手先(というとまた違うんですけど)のことじゃなかった。

 

舞台を、何もわかっていなかった

 劇場版スタァライトは、映画であり、アニメーションです。ですから、収録を何度しても、実際に使われるのはワンテイクだけであり、それがずっと残るものです。

 また、次元を上げるとドラマや実写映画も同じです。「最高の演技」を切り取り、それが世界中に同じだけ届く。

 

 けれど#4は、舞台でした。舞台ということは、今回の場合は8回(ゲネプロ入れて丁度9回ですね)、同じセリフ、同じ演技を、毎回違う「今」でやるのです。あのシナリオを? あの熱量で?? あの全てを、全身全霊を以てしたような演技を??? 何度も????

 

 ………………このことに思い当たった時、舞台って「狂ってる」んじゃないかと思いました。「アタシ、再生産」の意味を、「舞台少女は舞台の上で何度だって生まれ変わる」という概念について、欠片どころか塵ほども私は理解できていなかった。あの二度と見られない一場面、あの一節、あの一瞬を。何度も、その瞬間に〝なって〟、演じている??? 現実に??? 現実で???

 

 そんなこと、人間にできるとは到底思えない。でも同じ人間がやってる。狂ってる。舞台って、狂おしいんだなと、思いました。

 

 この舞台のキラめきを伝えようとした結果劇場版スタァライトができたのも、今では納得の狂いようだと思います。狂ってるものを狂っていない人に伝えるには、ギリギリ理解できるところまで視座を下ろすしかない。ジェットコースターに必ず搭乗口があるようなものです(良い例えな気はしませんが)。でも上り切ったあとはもうずっとハイスピードで駆け抜けます。前に、「劇スは場面が繋がってなくて登場人物もわけがわかんなくてぐちゃぐちゃで、けれどめちゃくちゃ良い気分だったな、と感じるときの夢だ」という趣旨のことを言っていたのですが、それなんです。

 #4は、観覧車は、こちらは茹でカエル理論(あれ嘘らしいですね)(じゃあ使うなよ)のように少しずつ、けれども確実に丁寧に、私を舞台へと持っていきました。そして気づかないうちに狂気に侵されていたのです。ホラーだ。舞台って怖い、というのも、全くもって間違いないです。そしてゆっくりと下降し、現実に降ろされた私は、全部持っていかれているのです。頂きで見たそのキラめきの余りの非現実さに、現実で見た夢に。舞台パートのラストシーン、現実で夢って見られるんだ、とぼんやり思っていたのを覚えています(今日の出来事だよ)。

 

 そういった感じで、劇場版と#4は、同じものを描いていながら、全くの正反対の性質を持っていたと思っています。けど、どちらにも共通することは、間違いなくスタァライトだったということ。スタァライトは人を狂わせます。5歳の華恋とひかりのように、今の私のように。スタァライトは何度繰り返しても足りず、そして全てが眩しすぎます。大場ななが、今の私がそうだったように。ただしそれらはスタァライトが持つ性質です。

 ではスタァライトとは何か。それは、人が、人々が、それぞれが持つ熱全部を注いで創り、演じ、取り組んだ、「人生という舞台/舞台という人生」の集合体なんだと思います。その熱量の、想いの、頑張りの結晶が、あまりにも信じられないくらい光り輝いているから、狂おしい。そうなんだと思います。

 

 ほんとは「愛城華恋」が卒業しても「小山百代」さんが持って行ってくれることとか、そういうことも書き散らしたいけど寝ないと明日に差し控える。また書きます、おそらく。

 

 明日の舞台も、怖くて、狂おしくて、楽しみです。